ヒップホップとの出会い@〜ギャングスター・ラップ


ブルースやR&B、ロック、ソウル、J-ポップ、フュージョン、
ジャズ、クラシックなど、私は多様な音楽を聴いてきたつもりだが、
ヒップホップだけはすすんで聴こうとはしなかった。
中でもギャングスター・ラップには嫌悪感を抱いていたのである。
なぜなら、それは必ずと言っていいくらい大音量でけたたましく音楽をかける
傍若無人な車から流れていたからだ。
思わず眉をひそめて車の中を見れば、
ガラの悪そうな若者が数人乗っている。

「これは音楽ではない。
ライムはスラングだらけで意味不明だし、
単にリズムにのせて喋っているだけじゃないか。」と
いつも思っていた。
ちなみに、ギャングスターとは
「暴力的犯罪集団の構成員」という意味である。

つまり、ギャングスター・ラップとは、お金や暴力、セックスにまつわる言葉を
多く使ったラップのことで、
ストリート(ゲットー)で麻薬や銃器の売買、売春の斡旋などをして生計をたて、
時には暴力や銃で相手をねじ伏せるような人生を送った者が、
自らのギャングスター生活をラップしている場合がほとんどだ。

一方で、ギャングスター(ギャングスタ)には独自の掟があり、
仲間を尊敬したり家族を大切にする風潮もあるらしい。
(アフリカン・アメリカンは語尾にある長音を伸ばさないで発音する
ことが多々ある。例えば、「ブラザー」を「ブラダ」と発音したり
「シスター」を「シスタ」と発音する。)


ギャングスタ・ラップのファッションだが、
ダブダブの服やバギー・パンツを好んで着用し、
胸には命の次に大切だという派手なネックレスをブラ下げて、
身体のあちこちに刺青を入れている。
スイミング・キャップのような帽子をかぶるというスタイルも
彼らの間で流行っている。
この独特なファッションはヒップホップを広める牽引力になり、
ギャングスタ・ラッパーの着こなしを真似する若者がアメリカを
中心に世界各地に出現した。

でも、私は彼らのファッションをクールだとは思えなかったし、
顔の表情も概して挑発的だったため、私はどうしても彼らの紡ぎ出す音楽を
好きになることができなかったのである。

そんな私が、1年ぐらい前からヒップホップに興味を持つようになった。
これは青天の霹靂である。
それも、
あれ程白い目で見ていたギャングスター・ラッパーに詳しくなった。
きっかけは、2年前にアメリカに住むJ君と知り合い、
文化交流が目的でメール交換を定期的にするようになったからだ。

J君とは、歴史や音楽、映画、生活習慣に関する話題で意見を交わしたが、
音楽について言えば、我々の好みにはかなりギャップがあった。
私が一生懸命70〜80年代に流行ったR&Bやソウルの話をしても
ちっとものってこない。

「そういう音楽は僕のお父さんがよく聴いています。
僕の友達でソウルやR&Bを聴いている人はほとんどいません。
みんなヒップホップです。」という淋しい言葉が返ってくる。
ところがそんなJ君もジャズはよく聴いているようだ。
どうやらジャズは世代を越えて今なお多くの若者に聴かれているらしい。

メール交換をし始めた頃、私はJ君にキッパリ言った。
「ヒップホップには全く関心がないんです。
だってギター・ソロは無いし、歌詞もよくわかりません。
胸にジーンとくるメロディもないので、ちっとも心が動かされないんです・・・」
ヒップホップの全容も知らず、私は短絡的に答えた。
そのような私に対してJ君は根気良く、
好きなアーティストの曲を送ってきてくれるようになったのだ。
それは「ブラック・アイド・ピーズ」や「ジュラシック-5」、「アウトキャスト」など
非ギャングスター系のヒップホップ・グループだった。

いつだったかゴスペル調のラップを送ってきてくれたことがあり、
そのラッパーの歌の上手さに舌を巻いたことがある。
「ラップするよりも歌を歌った方が彼らの優れた才能がより明るみに出る。
それなのになぜラップするんだろう?」とその時思った。

J君の熱意に私は徐々に心を動かされたのだろう。
ある日、レンタル・ショップに行った時、
私はJ君が紹介してくれたラッパーが、
どんな容貌をしているのか確かめてみたくなり、
ヒップホップ・コーナーにヒョイと立ち寄ったのである。
初めてヒップホップのCDを手に取り、ジャケット写真を凝視した。
強面で睨むようにこちらを見据えるラッパーの写真には閉口したが、
J君から教えてもらったグループのCDを何枚か見つけると、
奇妙な安堵感を覚えたのである。

そしてふと視線を感じて脇に目をやったら、大きい立て看板の中で
あるラッパーが鋭い眼差しでこちらを見ているではないか・・・。
それは「2PAC」こと「トュパック・アマル・シャクール」だった。
彼の眼光の強さには驚いたが、
それよりもすぐ隣りに掲げられた2PACの白黒写真に私は目を奪われたのである。
多分この時だろう。
私がヒップホップというカルチャーに興味を抱いたのは。

それからはラッパーのことをネットで調べるようになり、
私はストリート出身のラッパーの名前を次々と覚えていった。
いかしたラッパーを紹介する「ヒップホップ・ネイション」なるDVDも借りて観た。
ビックリしたのはJ君である。
「いったいどこで知ったのですか?」 
それが彼の口ぐせになった。

まず手始めに、2PACの音楽活動を追った本
「2PAC/トゥパック・シャクール 音楽活動の軌跡1989−1996
(ジェイク・ブラウン著/トランスワールドジャパン株式会社)
を取り寄せ、読み始めた。 
これは昨年の7月頃だったと思う。
この本は偶然にもその年の5月に刊行されたばかりで、
今まで出版された2PAC関連のどの本よりも、内容が濃いと言われている。

次に、アメリカで絶大な人気を誇るカリスマ・ラッパー、
「エミネム」の伝記映画『8マイル』をテレビから録画して観た。
それが昨年の11月のこと。
続けて、"2度撃たれても甦ったラッパー"「50 Cent/50セント」の半自伝的映画
『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』を借りて観た。

「50セント」の本名はカーティス・ジャクソン3世と言い、
このMC名は「50セント」でも殺人を請け負うというあるドラッグ・ディーラーの
ニック・ネームからとったものだ。
カーティスのお母さんも麻薬の売人で、彼を15歳の時に出産した。
ところが、男女関係のもつれから母親はカーティスが8歳の時に
殺されてしまう。
その後、彼は生きるために12歳の時からヤクの売人を始め、
強盗にまで手を染めるが、ある時ラップする事にめざめ、
ストリートから這い上がり、筋金入りのギャングスター・ラッパーになった。

50セントの人相はその壮絶な人生にマッチしている。
これほどタフでコワイ雰囲気を持ったラッパーもそういないだろう。
ただ、彼が出演した伝記映画を観て、
「よくぞここまでマットウになれたわね」
と拍手喝さいしてあげたい気持ちになった。
「見た目で人を判断してはいけない。
必ずそうなる原因があるのだから。」 
そう強く思った。

J君にその映画の感想を話し、
「根はおとなしくて優しい少年だったのに、
ストリートの惨状が彼を悪の道に誘ったんですね・・・
あの映画は私に大切なことを教えてくれたし、
彼に対して親近感を持つようになったわ。」と話したら、
「僕は50セントのことをあまり好きじゃないです。
でも僕のお母さんは彼のことが好きなんです。」と打ち明けてくれた。
多分J君のお母さんも私も、
50セントのことを母親の眼差しで見ているのだろう。

J君はある時、
高校時代の友達とラップしたという曲を送ってきてくれた。
その曲は彼が作り、お友達がラップしたもの。
彼女の声は大人の女性を思わせる落ち着きを呈していたが、
どこかアンニュイで寂しげだった。
言葉もリズムにノッテいて、なかなか上手だと思ったが、
敢えて私はJ君に言った。
「お友達のラップは雰囲気もあるし素晴らしいと思います。
でも私はあなたがラップするのを聴いてみたい!」
そう単刀直入に言ったのが昨年の秋である。

それに対し、
「僕は歌に自信がないけど、トライしてみます!」
と答えてくれた。
そして年が明け、突然彼から「僕の歌です」と言って
自作自演の『Around the Sun/アラウンド・ザ・サン』が送られてきたのだ。
この曲は他に従兄弟やそのお友達も参加してみんなで詩を持ち寄り、
2週間ぐらいで仕上げたという。

その後J君は、私がストリートに関心があることを察して
おすすめの映画があることを教えてくれた。
それがアイス・キューブ主演の『ボーイズン・ザ・フッド』である。
他に『ハッスル&フロウ』という映画も勧めてくれたが
『ボーイズン・ザ・フッド』の方が私の好みじゃないかと彼は言った。

私はこの映画を借りるため、すぐさまレンタル・ショップに走った。
まさか50セントの『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』と
J君の『アラウンド・ザ・サン』、
そしてゲットーの日常を描いた『ボーイズン・ザ・フッド』が
私の頭の中で一つに結ばれようとは思ってもみなかった。

私は今までブラック・ミュージックに強い憧れを持ち、
彼らの天賦の才能に敬意を表してきた。
そして彼らの心に重くのしかかるブルースというものを理解しようと
努めてきたつもりだったが、
『ボーイズン・ザ・フッド』を観て、ブラック・アメリカンの置かれた状況は、
日本で平和ボケしている私の想像をはるかに超える悲惨なものだと痛感した。
そしてその感覚に現実味を与えてくれたのが
J君の従兄弟が辿った悲しい結末であり、
『アラウンド・ザ・サン』の歌詞だったのだ。


<07・4・21>